パラグアイにおける東京農大校友・移住小史(その2)

東京農業大学校友会パラグアイ支部

2020年12月

(1)2000年・第3回「パンアメリカ校友大会」のパラグアイ開催:
1891年(明治24年)、母校東京農業大学の前身となる『私立徳川育英校(その後、東京農学校)』を創設した幕末・明治の英傑榎本武揚は、1897年にメキシコ・チアパス州に東京農学校の卒業生も含めた自由移民と契約移民合わせて35名を送り込み、それは『榎本植民』と呼ばれた。これが東京農大校友の新大陸(南北米)移住の先駆であろう。その後、1914年にはブラジル連邦共和国に、また1916年にはアルゼンチン国に東京農業大学卒業生が移住し、両国ではすでに農大生移住は100周年を迎えている。
本格的に農大卒業生が南北米に移住・進出したのは1952年の日米講和条約の成立以降であり、それには昭和31年(1956年)、母校に海外農業の開発を目標の一つに掲げた農業拓殖学科が開設されたのが、大きなきっかけとなったであろう。

しかし、移住小史(その1)に記したよう、いくら農業大学を卒業したからと言って、異なった言語と社会文化と社会制度、日本から地球の反対側に位置する南北米大陸で農業を基盤にした定着、生活安定は容易では無い。経済基盤と生活基盤がゼロから、または未開の原始林開拓から始め、子弟教育に一つの目安がつくには少なくとも20〜30年の歳月がかかることは容易に想像がつくであろう。
農業拓殖学科O Bが陸続として移住した1960年、70年代より30年以上すぎた1998年5月、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで「南米校友シンポジウム」と銘打って、アルゼンチン(7名)、ブラジル(2名)、パラグアイ(2名)、コスタリカ(1名)に移住した校友が集まり、南米3国(伯・亜・パ)の農大校友の連携と活動を一層深めることが話し合われた。このシンポジウムは翌1999年7月には「パンアメリカ校友会大会」と改名され、ブラジル・サンパウロ市で地元ブラジル(49名)、アルゼンチン(5名)、パラグアイ(2名)、コスタリカ(1名)、新たにメキシコ(2名)、USA(2名)、カナダ(2名)、日本からの校友と松田藤四郎理事長はじめ母校農大執行部並びに校友会本部関係者(計7名)、また母校バイオビジネス学科の多くの南米研修生(27名)が参加し、伯国東京農大会により主催された。

南米校友シンポジウムの様子

母校農大から必要経費の一部が支援されたが、母校からの支援は前年のブエノスアイレス大会にさかのぼり、その後、メキシコ・USA・カナダで開催される「パンアメリカ校友会大会」にも継続されることになる。
このサンパウロ「校友会大会」終了後に、農大執行部と校友会本部関係者が我々パラグアイで校友が多く在住するパラグアイ・イグアス移住地を訪問、校友はもとより、地元移住地の自治体・日系農協関係者、JICA駐在員と交流された。
(なお、バイオビジネス学科の南米研修生はその年5名がパラグアイで研修し、その後も毎年数名の学生がパラグアイに研修に来ている。その数は2017年の2名を含め総数33名にのぼる。2020年以降は、カリキュラム再編でこの制度はどのようになるか不明と言う。なお、この研修生受入のため、支部会員とパラグアイの特別留学生の家族は研修生に研修場所と宿泊場所を提供や、視察旅行への同行に協力し、その後20年間の校友会支部活動の重要な活動となる。)

第2回パンアメリカ校友大会の様子①

第2回パンアメリカ校友大会の様子②

翌2000年7月には、パラグアイのブラジル国境に接した町エステにブラジル(20名)、アルゼンチン(7名)、メキシコ(3名)、パラグアイ(16名)、母校農大執行部・校友会本部並びに日本の校友(計13名)の合計59名が集まり、第3回パンアメリカ校友会大会が開催された。大会開催に先立ち参加者はエステ市に隣接するブラジルの世界自然遺産“イグアスの滝”を見学し、翌日はイグアス移住地を訪問、JICA直轄のCETAPAR農業試験場視察と地元関係者と交流、夜には参加各国の代表者会議、最終日は全体会議という全日程を無事に済ませた。
また、大会に並行し小規模だが参加各国の物産展とパラグアイ民芸品展も開催された。なお、パラグアイの参加者16名のうち6名が校友移住者、5名は校友のJICA(国際協力財団)職員・専門家・シニアボランティア、5名は大会支援の校友の娘さん達であった。パラグアイ校友は大会に合わせ全パンアメリカ校友会の会員名簿を整理・作成し、パラグアイ校友・移住小史(その1)を配布、議事録と大会宣言の印刷、記念写真アルバムの作成発送まで行った。今振り返れば当時が校友会パラグアイ支部の全盛期であったと思う。

この農大校友パンアメリカ大会はその後、アメリカ大陸をメキシコ、USA、カナダと北上し、再度南下し2004年ブラジル・アマゾン・ベレン大会の後、2010年のブエノスアイレス大会、2012年のサンパウロ大会の開催後、2016年の母校創立125周年を記念し、東京の母校で開催された校友世界大会に引き継がれていった。

第3回パンアメリカ校友大会の様子①

第3回パンアメリカ校友大会の様子②

(2)東京農業大学特別留学生の動向:
母校東京農業大学は平成3年(1991年)に創立100周年を祝った、その時、パラグアイ校友はそれを祝い、1人100ドルの祝い金を全員が拠出し、東京での記念式典・祝賀会に出席した服部パラグアイ支部長、横田副支部長にことづけた。

その後、母校は大学進学者が減少する日本の厳しい少子化の現実、東京農大の世界展開、政府の科学技術立国方針などに対応し、学部の再編成、新学科の増設、厚木の新キャンパス建設などの大改革を行い。その過程で平成10年(1998年)に世田谷キャンパスに生物企業情報学科(後に国際バイオビジネス学科に名称変更)が新設された。
この生物企業情報学科は世界に貢献する方針により、4年間学費免除の特別留学生枠が設けられ、母校が世界に展開する海外姉妹校からの特別留学生に加え、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの3校友会支部からの特別留学生推薦枠も加えられた。また、この生物企業情報学科には大学2年の夏、国内各地での農業実地研修が、それに加え選考された希望者にはフイリピン、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイで海外の農業を視察・研修するという必須科目があった。

この特別留学生制度を利用し、パラグアイ支部推薦で受験し、4年間の学部を卒業した(1名現在在学中、1名は途中退学)学生が下表のように17名いる。なお、南米校友会支部の推薦には校友子弟・孫が優先されたが、パラグアイ校友子弟の大学進学と時期がずれ17名中2名のみが校友子弟で、他は各地の日系子弟であった。
また、特別留学生推薦の対象はその後、生企業情報学科だけでなくその他学科にも広げられ、現在では農大3キャンパス(世田谷、網走、厚木)18学科の多くが専攻可能となり、2019年からは大学院専攻も留学対象に含まれている。

1999年に開始されたこの特別留学生制度には、当初、当地日系社会の若者と家族から多くの参加希望があったが、現在は希望者が少ない。理由は4年間東京農大で勉学できるのは有難いが、卒業後パラグアイに帰っても、南米各国と日本には互いの教育制度を認め合う政府間協定が無いため、パラグアイの大学卒の資格を得るには、再度、パラグアイで大学教育を受け直す必要があるからだ。
結果、南米からの特別留学生の多くは、母校東京農大を卒業後、その語学力を評価され、日本の大学卒の資格で日本企業や団体に就職している。また、女性留学生には、日本の農家の後継者に嫁ぐものもいる。現在、パラグアイから留学した17名のうち5名が卒業後にパラグアイに帰国し、家業の農業を継ぎ、また日系農協で働いている。中にはパラグアイに進出した日本企業に日本で採用され、パラグアイに出張勤務するものもいる。
加えて、2020年度から特別留学生には日本国籍の保持・留保が認められず、完全な外国国籍の学生だけが選考対象になった。今後、日系子弟からの留学希望は一層難しくなるであろう。

しかし、1980年代以降40年間、パラグアイに新規移住した農大校友は1人しかいない。そのような状態で、“世界農業に人物をもどす”の母校農大の趣旨に従い、4年間の留学・卒業後、パラグアイに帰国し、本人が生まれた母国パラグアイで頑張る特別留学生OBは校友会支部にとっては、文字通りの“金の卵”である。

20年も前、今日を予想されたのか、特別留学生制度で新時代の農大校友を南米の地に根付かせてくださった母校東京農大と、当時の松田藤四郎理事長の慧眼には感嘆と感謝の念しか無い。1980年以前に移住した校友の多くがすでに70歳を超え、かつての半数しか生存しない今日、数は少なくとも若い校友が身近いることは、残る高齢校友に新しい“生きがい”を与えてくれる。
また、彼らが今後、ブラジル、アルゼンチン、またペルー、メキシコの特別留学生OBと連携し、新しい母校東京農大の世界戦略の一端を担うことを願うとともに、それを信じ疑わない。

留学年度 氏     名 備 考・卒 業 後
1999年 河野      正洋 日本企業に就職
1999年 久岡 アルフレッド 稔 農大中退
2000年 内山      大樹 日本で農協勤務
2001年 仲森      貴志 日本で起業
2003年 堤 ダニエル 広史 校友子弟、帰国し農業従事
2004年 宮里    智恵 卒業後、日本で結婚
2005年 堤田    昭宏 日本で当地進出企業に就職
2006年 福井 ディエゴ 伸一 帰国し、農業従事
2007年 横田 ファン 好古 帰国し、家業従事
10 2008年 松永 アンネ 和 メキシコの日本企業に就職
11 2010年 荒川 パブロ 篤義 帰国し、日系農協に就職
12 2010年 佐藤 クラウディア 奈美 帰国、日系農協に就職後、結婚
13 2011年 林 ロサーナ 歩 日本企業に就職
14 2013年 高橋 エリーナ 奈々 卒業後、ブラジルの校友と結婚
15 2014年 松永 パメラ 真利 日本の企業に就職
16 2015年 佐竹 ナタリア ゆり 在京パラグアイ大使館に就職
17 2016年 星川 アルベルト 宗一郎 現在、在学中

 
(3)パラグアイ農大校友会館のあり方:

1987年12月29日、アスンシオン郊外に落成したパラグアイ校友会館は約800平方メートルの敷地に2階建ての本館が建てられ、1階には共同利用の食堂と台所、広い勉強部屋と会議スペースの他に、トイレ・シャワー付きの来賓用部屋、予備のトイレ付き小部屋があり、2階には男子用部屋が4部屋と、女子用部屋が4部屋あり、それぞれには2段ベッドと整理タンスが据え付けられた。2階にはトイレ・シャワー付きは1部屋だけで、他の部屋に入った人は男女別の共同トイレとシャワーを利用するようになっていた。また、本館に接した庭には古い家屋があり、そこには退役軍人の家族が管理人として住んでいた。

パラグアイ校友会館(2018)

その後、1997年には校友会支部創立20周年を記念し、また寄宿寮生の増加に対応し、独立した二部屋とトイレを持つ離れ家屋が増改築された。資料によると、2000年に在籍する寮生は7名と記録され、すべてイグアス在住の校友3家族の子弟で、アスンシオン国立大学や高等学校に通っていた。寮生は電気代・水道代・電話代を共同負担、食事は各自経費で自炊し、備品購入や修理は支部会計で負担されていた。

その後、徐々に校友子弟は大学を卒業し寮生は2005年には4名、2007年には1名まで減ってゆき、最後の1名の日本留学とともに、会館は校友子弟のアスンシオンでの寄宿舎の役目を終えた。その後、2009年からはイグアス移住地出身の日系家族に安価に貸し出され、管理を頼むことになる。また会館も築20年を過ぎ、改修の必要も生じていた。その中、会館の役割はすでに終わったので会館を販売し、母校からの支援金を返済する案や、もっと立地条件が良く、例えば1階を店舗として貸し出し、2階を校友が利用できる建物に買い換える案も出て来た。

実際に2013年10月には、不動産鑑定士が会館土地建物の評価査定を行い、現地の日系新聞に販売広告も出してみた。しかし、築20年を過ぎ、また維持改修を怠った建物と敷地には多くの問題があり、購入希望者はいなかった。結果、まずは手持ち資金と会館の借家収入を活用し古いレンガ塀を崩し鉄格子柵に変え、長い間使われず崩れそうな管理人家屋を撤去、同じ場所に車両4台が入る車庫を建設し、新しく鉄格子柵に電動開閉式の車両専用扉を設置、高く成長した庭木の伐採・剪定に合わせ放置されていた会館雨樋の修理・補強工事などが2016年から開始された。

また2017年8月開催の第39回定例総会では、今後の会館利用法が討議され、売却・継続などの様々な意見が出されたが、結論として会館はこれまで校友が力を合わせて建設・維持して来たものであり、「校友会館のあり方の決定は総会の継続審議事項とし、当面は現状維持とする」ことが絶対多数で採決された。

2018年以降も、会館の使い易さを増すために、水道配管と水道配水タンクの修理更新、汚水槽の清掃、外部倉庫の増築、エアコン設置に必要な電気配線の新設と居住部屋別の電気メーター設置など、改良が加えられている。
パラグアイ支部はパラグアイ国の法人登録を得ているが、会計処理の煩雑さと事務処理と経費殺減のため、法人を公的には、活動休眠中としている。また、手持ち資金は長年の懇意を頼み、個人的な運用をしている。

将来、パラグアイが経済・政治混乱に陥るとも、校友会館と言う不動産物件はパラグアイ支部名義で残ることになる。移住間もなく、営農も生活も安定しない1980年代、校友会員が会館用地購入資金を積み立て、用地購入後は建設資金を積み立て、校友子弟と校友会活動のため、母校の支援を得て完成した校友会館を、パラグアイ支部の今後を引き継ぐ若い校友が末長く、また有効に活用することを願うものである。
 
(4)2018年・第2回南米東京農大校友南米懇親会の開催:
2016年、母校農大の創立125周年を記念し東京で開催された「校友世界大会」を最後に、1998年以降、南北米で場所を変え繰り返し開催されたパンアメリカ校友会大会は構成校友の高齢化もあり終了された。しかし、その後も、南米だけの肩肘張らない親睦の場を持ちたいものと、パラグアイ支部は馴染みのブラジル支部とアルゼンチン支部に働きかけて両国の賛同を得た。

結果、2017年7月のブラジル農大会恒例の合同慰霊祭に合わせ、三国の第1回校友南米懇親会がサンパウロで開催された。パラグアイ支部は2017年11月に支部臨時総会を開催し、2018年6月開催予定の三国校友懇親会に関する詳細を検討した。12月には、その2泊3日(6月10〜12日)のスケジュール原案を関係校友会に通知、参加を求めた。幸いパラグアイの呼びかけに、ブラジル、アルゼンチンの校友会はもとより、ペルー校友会、チリ在住の校友、懇親会後の農業拓殖11期同期会の開催、インターネット・農大ネットを通した呼びかけに日本からの参加者も増え、懇親会名称は当初の三国校友懇親会から、校友南米懇親会に変更された。

結局、南米懇親会には同伴者も含めブラジル農大会から10名、アルゼンチン支部より5名、ペルー支部より3名、チリより2名、米国より1名、日本より10名、パラグアイ支部より9名、合計40名が出席した。南米各地からの到着時間のずれもあり、懇親会日程は9日夜の前夜祭にはじまり、10日には希望者によるゴルフや市内散策もあったが、夜の歓迎夕食会で公式プログラムをスタートした。翌日11日はアスンシオン市内と郊外視察、郊外の日系クラブ訪問、校友会館訪問と民芸品即売会、園芸専門店訪問、夜の送別夕食会で公式プログラムを終了した。参加者は11日深夜、12日早朝のバス便、また昼と午後の飛行機便で帰国、また次の目的地に移動して行った。

短くて2泊3日、長くて3泊4日の懇親会スケジュールであったが、校友同士の久しぶりの再会、またパラグアイを30年ぶり、10年ぶりに伴侶や子供同伴で再訪した校友もあり、思い出話に花が咲いた。また、ペルー、チリを除いた国々では校友の高齢化が進み、今後の校友会活動への心配が話された。同じ悩みを持つパラグアイ支部ではあるが、懇親会にはパラグアイの若い特別留学生O B3名が出席、会費徴収から、市内散策まで率先して責任を果たし、参加校友の好評を得た。また、ペルーから出席した同じ特別留学生と若い校友同士の話も弾んだ。
歓迎会・送別会の話題は、次回南米懇親会を何時、どこで開催するかであった。いろいろ案が出たが出来るだけ早く、2019年にでもチリで開催がその場で決まった。また、歓迎夕食会には三好吉清校友会会長の祝辞が披露され、大会に花を添えた。

このように、2000年にパラグアイで開催された第3回「パンアメリカ校友大会」以降、18年振りにパラグアイで開催された南米校友の集まりは、パラグアイ校友の中には校友本人に代わって未亡人が出席された方、校友の病気看病のための欠席もあった。また、地元校友の高齢化により会館での展示・配布資料作りから、送迎・見送り業務まで外部の協力支援を受けての大会となり、今後の懇親会開催の一つの形を示しつつ無事に終了した。

第2回校友南米懇親会(歓迎会集合写真)

第2回校友南米懇親会/アスシオン市内の
レストランで開いた歓迎夕食会(6月10日)

第2回校友南米懇親会/アスンシオン市郊外の
ウパカライ湖畔で(6月11日)

第2回校友南米懇親会/パラグアイと
ペルーから参加した20代の校友(ウパカライ湖畔で)

(5)時の経過とともに:
2020年は新年早々、前年末に中国で発生した新型コロナウイルスが日本、韓国などの東アジア、その後、イタリア、スペイン、イギリスなどの欧州各国、アメリカ合衆国から中近東とアフリカに、瞬く間に感染を広げ、4月10日現在、世界で10万人近い方が亡くなられ、感染者は160万人を超えている。世界的感染が始まって半年も経たない新型コロナウイルスにはいまだ、有効な治療薬や予防ワクチンが開発されず、犠牲者の多くは高齢者と経済力の弱い人々と言われ、感染を防ぐために世界各国では都市封鎖など、人の往来と集まりを禁止・制限する対策をとっている。その経済的損失は計り知れず、第2次世界大戦前の世界恐慌(1929、1930年)に似た世界経済への大規模なマイナス影響が心配されている。

1978年に発足した校友会パラグアイ支部の創立20周年(1998年)は、パラグアイ国農牧大臣や日本国大使など多くの関係者を招待し、多くの校友、校友子弟とともに祝ったが、2018年に迎えた創立40周年は、第2回校友南米親睦会での紹介報告のみで終えた。

また悲しい事実ではあるが、かつて母校農大を卒業後、南米の小国パラグアイを永住の地と決め、若い情熱を注いだ当校友会支部の会員数名が近年鬼籍に入り、残された校友にとっては、いささか寂しい時代となってきた。
つまり2009年3月、久保田洋史氏(拓殖9期、1972年移住)が持病の糖尿病をこじらせて古希・70歳を迎える前に逝去され、2013年4月には、柴田隆一氏(拓殖10期、1971年移住)が熱帯性デング熱により慢性膀胱炎が悪化したのか、古希を迎えることなく亡くなられた。2018年7月には農大生のパラグアイ移住の大きな流れを作ったイグアス杉野農場の創設者・横田善則氏(拓殖7期、1970年移住)が日本での療養も虚しく亡くなられた。
結果、現在、パラグアイ支部活動を継続している支部創立当初からの校友は服部孝治(農学、1956年移住)、合田義雄(拓殖、1974年移住)、堤広行(拓殖、1975年移住)・和子(栄養、1975年移住)夫妻だけとなった。また、それぞれはかっての仕事を引退し、後継者育成や人生のまとめを心がけている。

また1990年、最後の日本生まれの農大校友として移住した村井昭(拓殖26期)が2006年、実家の都合で日本に帰国したため、今後、パラグアイ支部を受け継ぐ若い校友は母校の特別留学生制度で農大に留学・卒業したパラグアイ生まれの校友だけになる。彼らもいろいろな都合から多くは日本で就職・結婚しており、現在、パラグアイで営農・就職・結婚している若い校友は5人に過ぎない。将来、パラグアイ出身の元特別留学生が帰国し、パラグアイで新しい人生、また余生を過ごす可能性は十分あるが、当面はこの若い5人の校友と上記4人を中心にした校友会活動になるであろう。
 
(6)新しい活動を求めて:
先述のように、パラグアイ支部で活動する校友は10名程度に過ぎない。しかし、少数ではあるが、まとまりはある。その中で、新しい支部活動も始まっており、それを少し説明してゆこう。

2018年度より、パラグアイ支部では校友年金の支払いを開始した。支部はその40年の活動の中、パラグアイに多くの農大関係者と校友のJ I C A専門家・職員を迎え、短期間ではあるがお互いに親しい交わりの時を過ごした。その農大関係者と校友の多くは日本帰国の際に、支部に金一封を残してくれた。また、支部活動の多くは支部会員のボランティア精神で行われ、支部と会館運営では経費節約に努めた。加えて、1989年に支部がJ I C Aよりイグアス移住地に入手した植林用地25町部の校友への売却、利用されなかった当初の校友会館建設用地の売却などによる独自資金の蓄積にもつとめた。

これら余剰資金は全てその時点で信用のある個人的運用に回され、それはパラグアイ経済の高利運用もあり、長年の積み重ねの結果でまとまった額になっていた。一方、入植当初からパラグアイ支部を育てるのに苦労した、かつての校友のなかばはすでに鬼籍に入ってしまった。2018年度末総会で、その現実を見つめ直し、すでに65歳を超えた創立会員に校友年金として、支部財源の一部運用益を創立会員と残された配偶者に配分することになった。その額は生活費には足りないが、孫の小遣いや、受益者が気兼ね無く使える金として喜ばれている。

加えて、農大創立125周年記念事業として、母校からの長期研修生を援助する計画も立てたが、実際には2019年8月に母校の農友会海外移住研究部から4人の学生(鈴木健斗、菊永祐也、馬場言子、内田実花)を迎え、パラグアイでの20日間の調査研究に支援協力した。この内、3名は2020年8月に再来し、イグアス移住地をテーマに卒業論文を作成予定であったが、新型コロナ騒ぎで中止になった。また、2019年11月には30年前、パラグアイでJ I C A青年海外協力隊員とし活躍した白石正明校友が知人3名とパラグアイを3日間訪問したが、彼らの移住地や各地訪問、昔の知人や校友の家族との再会にも協力した。

また、移住小史(その1)にあるように、パラグアイに1970年に移住した横田校友、その後に移住した校友は全てイグアス移住地に入植し、その校友子弟の多くもイグアス日系社会で育った。移住校友も高齢に達した今、支部資金の一部を、来年創立60周年を迎えるイグアス移住地の福利厚生と育英のために使う計画を立てた。
かつて、うっそうとした原始林に覆われていたイグアス移住地も今では人口12000人の地方都市に発展し、人口の95%はパラグアイ人とブラジル系が占め、残る5%が日本人と日系である。そのイグアス市、パラグアイ国全体も今年初めより、新型コロナウイルスへの対応に追われている。そのため2020年9月、イグアス市役所に5000枚のマスクを寄贈し、必要な市民への配布をお願いした。

また、11月にはイグアス移住地の創立期より、現在まで日系子弟の教育に大きく貢献したイグアス日本語学校の教師のためにデスクトップパソコン1台、イグアス聖霊幼稚園には43インチL E D・TV1台をそれぞれ寄贈した。

以上、2000年にパラグアイで開催された第3回「パンアメリカ校友会大会」に合わせてまとめた校友移住小史(その1)の続編として、(その2)を書いてみた。移住1世の校友に残された時間はお互いにわずかであろう。 大学を卒業しすでに50年以上、パラグアイに移住して45年以上が過ぎようとしている今日、今なお我々校友の血潮と脳裏に流れるのは、かつての母校農大での日々である。

伝統ある東京農大で、至誠と温情あふれる教師陣に指導され、全国津々浦々から集った先輩、同輩、後輩たちと切磋琢磨し充実した学生時代を過ごした日々が、時の経過とともに鮮明に脳裏に蘇る。ある校友夫人は、来訪された農大関係者に「面白いイグアスの開拓人生でした。できるなら、もう一度、繰り返しても良い。」と話されたと言う。我々移住した校友も「楽しい農大の学生生活でした。できる事なら、もう一度、農大に入学してみたい。」と考えているだろう。

今後、パラグアイ支部と支部会員がお互いの発展のため、またパラグアイと日系社会の発展、加えて母校東京農大の発展のため、良き働きをすることを祈りつつ、加えてこれまでパラグアイの校友とパラグアイ支部のために支援していただいた全ての方々に深い感謝の意を述べ、またこれから20年後、校友移住小史(その3)が書かれることを願いつつ、パラグアイ校友移住小史(その2)の終わりとしたい。

以上

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